相模原だより再び

SF音楽家・吉田隆一の日記です

身体性

大編成、とまでは呼べなくとも、やや大人数のアンサンブルでは演奏者が身振りでリズムを出したりする。さらに、演奏の進行が即興的に変化するような音楽であれば、頻繁に「せーの」で次の展開に進むため(あるいは終わらせるため)の指揮が行われる。

そんな時に、他者にわかりやすく手や指を振るのが決まり、というか音楽家の共通認識わけだが、その身振りは千差万別だ。おそらく各々の経験と、何より身体性によってその差が生じる。それを見るのが私の密かな楽しみだ。自分の身振りが他者から見てわかりやすいかどうかはさておき(さておかないとやってられない)わかりやすいかどうかより、その瞬間に「音楽の個性」が発揮されるように思うのだ。ライブコンサートの意義とはそうした身体性を見ることにもある。とはいえ、ライブでも演奏者を見ずに音だけ聴くのも無論のこと普通なので、その場合はどうなのか。それでも……身体性の結果としての音を聴いているわけだから、やはり身体からは逃れられない。身振りがスマートなら良いわけではない。不器用とも言える動きが音楽の個性を生むのも体験しているし、紛れもなく美しいものと感じる。

エクレアが好き

エクレアが好きだ。きっかけは子供の頃に読んだ大石真『チョコレート戦争』である。作中、主人公たちの敵役となるケーキ屋さん店主のエピソードに登場するエクレアという名前の由来…… 稲妻のごとく素早く食べなければクリームがこぼれてしまうため、というくだりか印象的だったからだ。

母にリクエストしたところ、時折、行きつけのケーキ屋さんで買ってきてくれるようになったのだが、それがチョコクリーム入りでとても美味しかった。

近年、コンビニエンスストアで買えるエクレアもチョコクリームが増えて、ちょっと嬉しい。子供の頃に食べていたチョコクリームはそうしたコンビニスイーツに比べて甘さはもう少し控えめだった記憶があるが、思い出補正もあるのでわからない。子供の頃に母が通っていたケーキ屋さんは今もあるが、同じエクレアはもう無い。

猫に育てられる

18年と少しの間、生活を共にした猫さんが他界したのは8月20日で、以来20日を月命日として猫さんを偲んでいる。

子供の頃から「猫」という生き物と親しみ、本当に個性様々、異種生物の知性の存り様を教えてもらってきたのだが、こと18で他界した猫さんは何か「特別」に思えたのだ。それは猫さんが旅立ってから日を追うごとに実感が増す。

猫を素晴らしい生き物と考えていても、やはり人間ではない以上、生活を共にしても関係は決して対等ではない。ただそれが現実として「飼育する/される」という関係であっても、人間側が(猫に限らず)異種生物に敬意を払えば、そこに「お世話させてもらっている」という気持ちも生まれる。その気持ちが大事なのだと思う。結果として、人間同士の関係でも「対等とは」と考えるようになる。子供の頃にそれを教えてくれた「猫」という種族に感謝している。

そして大人になってもなお、である。特別に思える「猫」との出会いの意味はとても大きい。即ち、「なぜ他者との関わりに於いて "特別" があるのか」と考えることになる。つまりは年齢を重ねてなお「猫」から教えられているのだ。

私はずっと「猫」に育てられているのだ。

空耳

出先のBGMにて矢野顕子「春咲小紅」を久しぶりに耳にして、ふと思い出した。

子供の頃、この曲の歌詞を

「ほら春先、神戸に、見に見に見にきてね」

だと勘違いしていた。

いま現在、神戸と思って聴いても実はあんまり違和感が無い。

だからなんだと言われればそれまでだが、こうした「仕舞われた記憶」は、人格形成に多少なりとも影響しているのか、それともただ「記憶」というだけなのか。気にならなくは無い。

ゴルゴ13を読む

電子書籍版『ゴルゴ13』がキャンペーン価格というのでカバーを眺めていたら、子供の頃に読んで印象的だった話を思い出し、何冊か購入した。

第10巻『ラ・カルナバル』のラストは好きだ。舞台はブラジル/リオのストリート。カーニバルが終わった午前5時、ゴルゴ13はターゲットであるナチの残党に最後の決闘を挑まれ、対峙する。

カーニバルを背景に展開する物語であり、ラストが早朝というのは、どこか映画『黒いオルフェ』も連想する。作劇に於けるイメージの由来がなんであれ、単行本一冊を費やしたスケールの大きな物語のラストが、祝祭の後の朝というのはとてもいい。

しかし読み返すとどうしても個人的な感慨が先に来てしまう。ラストの画と、自分の子供の頃の「早朝」の記憶がリンクするのだ。それも両親それぞれの実家、東京の早朝を思い浮かべてしまう。こうした「連想」により引き出される記憶こそ、人間1人1人の個性に結びついているはずだ。

同じフィクションを見聞きしても、それがもたらす印象が他者と全て一致するはずがない。こと幼少期の記憶ならば、周囲の環境から独立した単体の記憶としてフィクションを思い出すことは少ないはずだ。それこそが「個」を形成する記憶の在り様であり、フィクションと個人の、唯一無二の関係となるのだ。

 

千葉で空を見る

「港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった」

 

サイバーパンクと呼ばれるジャンルフィクションの始点の一つ、ウィリアム・ギブスンニューロマンサー』、黒丸尚氏の訳による有名な冒頭の一文である。

本作は日本「チバ・シティ」から物語が始まる。この冒頭の「空」はチバ・シティの「空」だ。

 

今日、久しぶりに千葉に車で移動し、高速道路で千葉県に入り少し走って「あ、千葉の空の色だ」と思ってしまったのだ。

 

無論、それはおそらく気のせいで、日本の、関東地方の空だけが映る映像を見せられて「どこの空か」と尋ねられて当てられる自信はない。無論、世界のどの「空」でも自信はないのだが。

おそらく、周辺の施設によって切り取られた空の「形」に見覚えがあったのだろう。それでも、気候が変わらない距離の土地の「空」の色てもどこか違うように思っている。先入観と言われればそれまでだけど。